僕の太鼓の先生であり、ケニアの父であるムゼーマテラ師が病気で死の淵に或ることを知らされたのは去年の11月、ちょうどジャクソンツアーも終わりにさしかかっていた時だ。マテラ師の弟であるサイディから送られて来た、骨と皮だけになったマテラ師の写真を見た時、正直背筋が凍り付くような思いがした。一緒にツアーで日本全国を廻っていた早川千晶さん、永松真紀さん、マサイ族のもと戦士リーダーのジャクソン・オレナレイヨ氏にも写真を見せたが、みな驚きの表情を隠せず、口々にもう長くはないかもしれないと言った。
普通ならばすぐにでも心が動いてなんとかしなければと思う所なのだが、正直のところちょっと複雑な心境だった。マテラ師からは本当に多くのことを教えてもらい、家族同然の付き合いをし、莫大な時間を一緒に過ごさせてもらうなかで、良い所も悪い所もあることを僕は知っていた。
マテラ師は僕がこれまで出逢った中で、この人は本物の天才と言える人の一人だ。
彼の太鼓の音はまるで生き物の様、音に精霊が宿り語りかけてくるような、一つ一つの音に見えない世界のなにかが宿り、大地と空気がそれに呼応して喜ぶ、そんな光景をもう何度も何度も見させてもらった。
しかしまた、私生活ではいささか腑に落ちないことも多く、特にここ数年は良くない話しばかりが耳に入って来ていたのだ。
それでもやはり家族の一員として出来ることはしなければと思い直し、ケニアに帰る早川千晶さんに治療のための数万円を託したところ、その一ヶ月後なんと持ち直したという知らせを受けた。サイディはその数万円で、マテラ師の治療の為の小さなセンゲーニャの儀式をしたそうだ。センゲーニャの太鼓が鳴り出すと、寝たきりだったマテラ師は起き上がり自ら歩いてそのそばまで行き、そして自ら太鼓を叩き出した。そこからマテラ師は食欲を取り戻し、みるみる回復していったそうだ。
サイディはマテラの心の内側の深い所にまで問いかけ、今何が必要なのかを訊ねたそうだ。するとマテラは「プングヮの儀式を行いたい。そのための助けが欲しい」と言い、そう語るマテラの動画が送られて来た。
ちょうどそのころ僕の方は冬の制作活動の最中だったが、とある仕事でケニアに行くことが決まりかけ、その時期に合わせて儀式を行うという計画が持ち上がった。そこで問題なのは儀式を行うための費用だ。かつてはみなで牛やヤギなどを持ち寄って儀式を行なっていたのだが、今ケニアはもの凄い経済成長の最中にあり、物価は高騰し、牛やヤギを買うのも、グループを招聘するにも費用がかかる。
そこで、かつてドゥルマの伝統音楽家たちと制作したCDの、ここ数年たまっていた収益をプングヮの儀式の費用にあてようという名案を早川千晶さんが提案し、それでも足りない費用はマテラ師とご縁のある方々に協力を呼びかけてみようということになった。
「プングヮというのは一体どんな儀式なのか???」
サイディに訊ねると、3日3晩センゲーニャの祭りを行い、牛やヤギを捧げて精霊達やご先祖さまたちを喜ばせ、そして精霊達やご先祖さまたちから特別な力を授かる、マテラ師の治療のための儀式だという返事が帰ってきた。
センゲーニャとは、1900年代初頭にケニアの海岸地方に暮らす民族の間で爆発的なムーブメントを巻き起こした一つの文化だ。それは、マジャスィという一人のハーフカーストによって生み出された。民族の違う父親と母親のそれぞれの田舎を行き来するうちに、2つの異なる文化は自然にマジャスィの中で融合され、新しい音楽が生み出された。マジャスィには霊的な力もあり、その音楽は広く人々に支持された。
センゲーニャのことを妬むグループも存在していた。そのグループとの決着を付けるために、ある競技が行なわれた。それは、40日間演奏をし続け、より多くの支持者を集めた方が勝ちと言う競技だった。その競技でセンゲーニャは圧倒的な勝利をおさめ、さらに支持者を増やしていった。
民族を超えて各地に広がったセンゲーニャを一つに繋ぐために、各地域に12人の旗持ちが選抜された。マジャスィと12人の旗持ちは連絡を取り合い、旗持ちは地域のリーダーとしてマジャスィのメッセージを人々に伝え、旱魃に備えたり、疫病の対策をしたりしていた。そのメッセージは歌となって祭りや儀式の場で歌われ、人々に伝えられていた。
こうしてセンゲーニャは、音楽と信仰と地域社会とが一体となって社会構造の一端を担うほどの現象となり、黄金時代を築いた。だが、時は流れてマジャスィも亡くなり、そのムーブメントも徐々に勢力を弱めていった。
マテラ師の父親は、そのセンゲーニャの旗持ちを受け継いだ者の1人だった。
さて、いよいよケニアに渡り2年ぶりに再会したマテラ師は、穏やかな笑顔で迎えてくれた。2年前は一瞬しか会わなかったので、ほぼ5年ぶりの再会とも言える。僕にとってはそもそも計画した旅ではなく、たまたまいろいろな偶然が重なりケニアまで来て儀式に参加することになった事がとても不思議で、まるで何かに仕組まれているように感じると告げると、「それは精霊の力だよ。」とマテラ師は笑いながら言った。
思ったより元気そう、でも明らかにかつてほどの活力は無く、死にかけるほどの病いで相当なエネルギーを消耗したのだろうと感じた。
〜聖地カヤダガムラ〜
儀式はカヤダガムラという聖地から始まった。
カヤというのは森の中にある聖地のことで、カヤ守りの長老たちによって代々守られて来た、その地に住む民族の信仰の中心ともいえる場所だ。聖なる樹々の根元にある祈りの場で、旱魃時の雨乞いの祈りや、開墾前の豊作祈願など大切な祈りの儀式が代々行なわれて来た。こうしたカヤが海岸地方にいくつか点在している。
この儀式に参加するために日本からやって来た仲間たちとともに3台のバンに乗り込み、大乾期の最中の乾ききった大地を激しい土ぼこりを上げながら走り続け、数時間後やっとダガムラに到着した。
われわれは、カヤダガムラに足を踏み入れた初めての外国人となった。
聖なる樹々にも個性があり、雨乞いの祈りを捧げるための樹、病気の治癒を祈願する樹など、それぞれに役割が違うそうだ。
聖樹へと繋がる森の中の小道には、それぞれ第1の門、第2の門、第3の門が置かれていて、魔物の侵入を防いでいる。
どことなく日本の神社と似ている。一人ずつ順番に聖水で手足を清め、聖木に跪いて祈りを捧げた。
祈りの場に入るには掟もあり、前夜に異性と共に寝た者は入ることが許されず、そして帰るときは決して後ろを振り返ってはいけない。
その夜、素晴らしい満月の下、精霊を降ろすためのンゴマザペポがおこなわれた。 ここで使われていたムションドという太鼓の音には独特の粘りがあり、時空がちょっと歪むような不思議な音色と小刻みに繰り返すダンスに引っ張られて、人々は次々にトランスに入っていった
その太鼓の音が鳴り響く中、センゲーニャの長老たちが次々にやって来た。遠方からはるばる12の旗持ちたちが、マテラの儀式の為に集まって来たのだ。
太鼓が組まれた地面に椰子酒が捧げられ、ゆっくりと、ゆっくりと、めくるめくセンゲーニャの儀式が始まった。
真夜中に雨が振り出した。カヤに願いが聞き入れられた証だと、誰かが言った。
〜ご先祖、初代マサイのお墓〜
カヤダガムラにはもう一つ重要な場所がある。それはマテラ師の曾祖父である初代マサイのお墓だ。
マテラの本名は「スワレ・マテラ・マサイ」。ファミリーネームがマサイと言う。
マサイというのは東アフリカでもっとも勇敢と言われている民族の名前だ。
ドゥルマ民族の間でマサイという名前がなぜ使われているのか???その理由がマテラ師の曾祖父さんにあった。
その昔、あるドゥルマ人が市場で牛を買って帰って来た。その牛はもともとマサイのもとから盗まれた牛で、その牛を取り戻すためにマサイの戦士たちがドゥルマの集落にやって来た。大抵の者はマサイを恐れて逃げ出してしまったが、一人だけ逃げ出さない者がいた。それがマテラ師の曾祖父さんだった。
当時のマサイの文化や社会システムは先進的なもので、曾祖父さんはマサイ文化に憧れていた。
そこで逃げるどころか、逆に食料や土地を提供してとても仲良くなり、マサイも彼のことが気に入って長くその地にとどまった。
そして、曾祖父さんとマサイの戦士は切っても切れない仲間の契りを交わし、曾祖父さんはマサイと呼ばれるようになったということだ。
勇敢で好奇心旺盛な一人の男の大胆な行動が、ドゥルマ民族の間でマサイという名前が使われる由来となったのだ。
一晩中続いたセンゲーニャの翌朝、儀式はその初代マサイのお墓に場所を移した。
初代マサイの曾孫にあたるマテラ師が、家族や子供たちと共に久しぶりにお墓を訪れ、病気の治癒と家族の繁栄を祈願し、ヤギを捧げた。
そして、センゲーニャが先祖の眠る大地に鳴り響いた。マテラに指名され、僕も太鼓を叩いた。すると、大地から歓喜の声が沸き上がるのが聴こえて来た。そしてご先祖さまとがっちり握手をしたような、そんな手応えが感じられ、感無量で胸がいっぱいになりながら太鼓を叩かせてもらった。
素晴らしい歌声のゲレザ長老がこんな事を言った
「ンゴマにムエンガ。ンゴマは一つになるためにするのだ。」
それこそがンゴマの、センゲーニャの神髄だと思った。
祈りを込めて屠殺したヤギは、塩を使わずに煮込まれ、その場で皆で分けていただいた。
ある女性がその場で降って来た歌を歌った。それはこんな歌だった。
「神様に祈ろう センゲーニャと共に マテラのセンゲーニャをヤラビの神へ
日本は遥か遠い 山を越え谷を超えて
センゲーニャは山を越え谷を超え 遥か日本まで」
〜めくるめく続くセンゲーニャのプングヮの儀式〜
場所はさらにマテラとサイディの家があるサラサメリに移された。さらに大勢のセンゲーニャのメンバーが集まり、野営しながら儀式が続けられていく。
3日目の真夜中、マテラが太鼓についた。
無駄な力の一切無い一音一音が、辺りに響く。
目を細め、何かを探し求め、別の世界と繋がり、なにかとやり取りしながらそれを音に変換していくような、そんな光景を目の当たりにする。
力が抜けているのに、音は深く、そこにいる皆の魂が喜ぶ、そんな音だ。
踊り手たちの笑顔は輝き、まさにこの瞬間の為に生まれて来たとでも言いたそうな、そんな表情で踊り続ける。
大きな山を、みなでゆっくりと足並みを揃えて登っていき、山頂でクライマックスを向かえ、さらに宇宙と繋がる。その、みなの足並みをそろえ、クライマックスへと導くのが太鼓の役割だ。
太鼓は様々なストーリーを作り出し、皆の心に語りかける。踊り手がどんなに高揚しても、マテラは落ち着いている。
マテラに続いて12の旗持ちそれぞれの太鼓叩きたちが次々に交代しながら、この日もセンゲーニャは朝まで続いた。
マテラ師が生まれたのはミリティーニという、ケニアの首都ナイロビと第2の都市モンバサを結ぶ主要道路に面した小さな村だ。
お父さんであるマサイ爺(初代マサイの孫にあたる)はセンゲーニャの12の旗持ちの一人で、伝統継承者として地域をまとめるリーダーだった。僕が初めてミリティーニに来た時、病床でねたきりのマサイ爺に一度だけご挨拶したことがある。マサイ爺は弱々しく僕の手を握り、「体が痛い痛い」と言った。それから間もなくマサイ爺は亡くなり、7日間に及ぶ弔いのセンゲーニャの儀式が盛大に行なわれたのを記憶している。
息を引き取る直前、マサイ爺はマテラ師に見えない何かを手渡し、「家族や子供たち、孫たちの事をたのむ」と言い残して行きを引き取った。それは2004年のことだ。
それからミリティーニはどんどん変貌していった。東アフリカの主要な貿易港を抱えるモンバサが直ぐそばにあるため、国の経済特区に指定されたミリティーニの土地はどんどん買収されていき、工場やコンテナヤードが建設された。マテラが生まれ育った集落の大きなキリフィの樹はバラバラに切り売りされ、集落全員がその地を追われ、数ヶ月後には暮らしてきた土地の周りをぐるりと塀で取り囲まれて、クリンカというセメントの材料が保管される場所になってしまった。
土地を追われたマテラの一族は、その地を買収したインド人から与えられた別の土地へ移住することになったが、時を同じくして一気に流入して来た人々がこぞって土地を買い漁り、モンバサへの通勤にも適した格好の新興住宅地として、アパート建設ラッシュが始まり、さまざまな商店が立ち並び、土地の売買や人口増加にともない様々な問題が勃発し、人間関係は壊れ、次第に一族はバラバラになっていった。
その間も国の開発計画はどんどん進んでいき、かつてのどかな畑や椰子の木が連なっていた広大な土地は切り崩されて巨大なハイウェイが建設され、一族のお墓があった丘はパワーショベルで掘りかえされ、その上を高速鉄道の線路が新設された。
マテラとサイディは、父である故マサイ爺も含め一族すべての遺骨を集めて田舎に埋葬しなおした。
その作業はとても辛いことだったそうだ。とくに自分の母親の遺骨を見るのはとてもとても辛かったとサイディは言っていた。
一夫多妻文化のなかでマテラとサイディは同じ父母から生まれた兄弟だ。父であるマサイ爺は7人の妻がいたが、その息子たちも多くが他界してしまい、今はマテラとサイディ、異母兄弟のバーティの3人しか残されていない。一族の向かう方向性を決めるのはその長であるマテラ師の役割だ。しかし土地や畑を奪われ様々な問題に巻き込まれ、私生活でのトラブルもあり、マテラは信頼を失い、体調も崩していった。さらにお墓の移転に伴い、マテラの病状は悪化した。これは何かのメッセージだとサイディは思ったそうだ。
2004年にマサイ爺が亡くなったあと、ミリティーニは旗持ち不在のまま今に至っていた。
旗持ちというのは、なりたくてなれるものではないそうだ。マサイ爺が亡くなったらすぐに他の誰かが就任できるものではなく、旗そのものに選ばれた者が旗持ちになるのだ。そしてほかの12の旗持ちすべてに認められて、初めて正式に就任できるのだ。
旗に選ばれた者は病気になる。その病いは西洋医学では治せず、精霊や先祖から特別な力を授かるプングヮの儀式で治療することが出来る。
墓を掘り起こされ、目覚めてしまったマサイ爺の魂がマテラを旗持ちに選び、病気にさせているのだという。
マテラは信頼しているシャーマンに診てもらい、あることに気がついた。マテラは完全に道を踏み外していた。さまざまな問題に翻弄され、先祖や精霊たちに繋がる伝統の道から大きく外れた道を歩んでしまっていたのだ。
その道を再び本来の道に戻すためにも、プングヮが必要だとマテラは思った。
力を授かり、旗持ちに就任する時が来たのだ。
4っ日目の朝、牛が屠殺された。この日が儀式の最終日だ。
正装をまとった踊り手たちが、男女向かい合ってずらりと横一列に並び、男たちは足に付けたジュガを踏みならしながら、背中のキリヤカと呼ばれるダチョウの羽飾りを揺らしながら、少しづつ、少しづつ高みへと登ってゆく。女たちは方のビーズを揺らしながら、ジェレジェレを響かせる。
センゲーニャのリズムは、5拍子のヤンダーロから始まる。チャプオと呼ばれる、音に倍音を含んだ両面太鼓のシンプルなリズムに、もう一つのチャプオと、ウパツの金属音が重なる。そこに、ンゴマンネと呼ばれる4つの中低音の太鼓が、時には歌うように、時には語りかけるように叩かれるのだ。
踊り手たちは、一つのシンプルなステップを皆で力強く刻んでゆく。その中で様々な歌が歌われる。先祖の歌や精霊の歌、歴史上の出来事や母に捧げる歌などだ。
大きな山の山頂を目指して歩いていくように、ゆっくりと、しっかりとステップを踏み続ける。皆のエネルギーが一つになり、山頂に達した所で、太鼓の合図でムセレゴと呼ばれるクライマックスに突然転換する。ここでエネルギーを爆発させるように皆激しく踊りだす。男たちは小刻みにジュガを鳴らし、背中のキリヤカをよりいっそう激しく揺らす。女たちも激しく肩を揺らしそれに応える。このときの高揚感がたまらないのだ。ムセレゴでクライマックスを迎えた後、リズムはクチャンガーニャと呼ばれる6/8拍子に変わる。ここでさらに場面転換が起こり、別の次元へと繋がっていくような、爆発的なエネルギーが生まれるのだ。
こうしたセンゲーニャの、ヤンダーロ~ムセレゴ~クチャンガーニャまでの1サイクルを、30分~50分ほどの時間をかけて行なわれる。
このサイクルが何度も何度も繰り返されて、人々は見えない世界と繋がっていくのである。
何度かセンゲーニャのサイクルが繰り返されたあと、皆が隊列を作って踊りながら歩き出した。太鼓隊も列に参加する。向かう先はマテラ師の家だ。
センゲーニャの隊列は行進しながら家の中に入っていき、椅子に座っているマテラをぐるりと取り囲んで歌い続けた。
マテラは、今まで見せた事も無いような神妙な顔を浮かべていた。
やがて隊列に促されてマテラ師が家から出て来た。そのマテラ師を先頭にして隊列が動きだした。隊列はまるで大きな一つの生き物のようだ。
マテラ師の表情は威厳に満ちた、この世界ではないどこか別の世界を診ているような目をしていた。
センゲーニャが隊列となって広場の聖水の前までやって来た時、マテラが顔を歪めて涙を流した。
てほんの数秒後、いつもの人間味のあるあの穏やかなマテラの顔に戻っていった。
儀式の広場に戻ったセンゲーニャはさらに高いエネルギーを保って演奏し踊り続けた。
人々が聖水でマテラ師を清めていく。ムガンガと呼ばれるシャーマンが祈りを捧げ、一人づつ順番にマテラの頭を聖水で洗い流し、顔を洗い、手足を荒い清めていく。
そして、マテラが皆に囲まれて満面の笑みで踊りだしたその瞬間、この儀式が無事行なわれて、この場に立ち会う事が出来て本当に良かったと心から感じた。それは本当に嬉しそうな、子供のような顔をしていた。
その後、大きな布が広げられ、その中でカラムと呼ばれる、特別な力を与える食物を食べさせる儀式があり、さらにその残りをマテラが子供たちや孫たちに食べさせ、儀式は終了した。
儀式の最後にマテラ師の演説があり、そしてそのなかで、新たに4つの旗持ちが認定された。
一つ目はセンゲーニャジャーマン、ドイツに移住した友人のマゼラが就任した。
二つ目はマリンディのムシャーゴのチーム。
三つ目はセンゲーニャジャパン。僕と早川千晶が就任した。
四つ目はサラサメリの若手センゲーニャグループ。代表はマテラの次男であるブイと、長女のウマジが就任。
他にもドゥルマ民族の伝統文化を研究している、文化人類学者の若い女性が紹介された。
センゲーニャジャパン、日本人のセンゲーニャ奏者が、正式に認められて旗を掲げる事が許されたのだ。
ドゥルマ民族のンゴマを学んだ者として、こんなに嬉しい事は他に無い。
経済成長の真っ只中にあるケニアで、激しい変化の波にさらされ消えてかけている伝統文化。そんななか、センゲーニャは外にも種をまき、生き残りをかけているような気がする。
ならばいつの日か、日本人のセンゲーニャチームでケニアに凱旋し、精霊や先祖たち、マテラ師やドゥルマのみんなが見守る前でセンゲーニャを披露する事が出来たらどんなに素晴らしいだろう、そんな夢を抱いた。
儀式の数日後、マテラ師とサイディに会いにいくため、ナイロビから新しいSGR鉄道に乗った。
線路は野を越え山を越え、たくさんの野生動物たちがいるツァボ国立公園を横切り、かつてマサイ一族のお墓があった丘を走り抜け、対岸へ渡る小さな渡し船があるだけだった静かなムクペの入り江には到底似つかわしくないような、近代的で巨大なモンバサ駅に到着した。
時代は変わっていく、いろいろな物を犠牲にして。
久しぶりに会ったミリティーニの人々は、皆体調を害していた。
ミリティーニには色々な問題が起きているが、その一つは解決されていない土地問題だ。
経済特区に指定されたミリティーニの土地は、モンバサ市の物とされ、住人は市に土地代をはらわなければならない。そのモンバサ市へのつけが、ある集落で500万シリング(およそ500万円)にもなり、支払いを迫られている。
もしも支払えなければ、また土地を追い出される事になる。生まれ育った土地を奪われ、さらに移住先も追い出されるという、非人道的な事態が起きようとしているのだ。
これは一体どうした物かと頭を抱えながらミリティーニを後にし、再び儀式が行なわれたサラサメリにやって来た。
サイディに相談すると、彼にはある考えがあるようだった。儀式の始めに訪れたカヤダガムラへの移住計画だ。
マサイ一族の発祥の地でもあるダガムラに一族で移り住み、畑や放牧をしながら暮らしを立て直そうというのだ。
未来に一筋の希望が見えた気がした。
カヤダガムラ移住計画。そのための一歩を、いま踏み出したところだ。
道のりは簡単ではないかもしれないが、きっと実現できると信じている。
2018年3月23日 大西匡哉
3月27日追記
ダガムラ移住計画始動
日本に帰国して数日後、サイディから連絡があった。
"Majiitapatikana hapa dagamura!" 『ダガムラに水脈があるぞ!』
『ダガムラには広大な土地があり、井戸があれば畑が出来る。畑があれば皆で生きていける。』
帰国直前に話していたダガムラ移住計画について、先ず井戸を掘りたいとサイディは話していた。
ダガムラには広大な土地があり、土も悪くない。井戸があれば畑が出来る。畑があれば皆で生きていけるのだ。開発が進み、行き場を失うであろうミリティーニに暮らすマテラ一族の移り住む場所として、ダガムラへが考えられているのだ。
井戸を掘るには水脈調査が必要だが、3000kshで調査に来てくれるという。調査技師にダガムラまで来てもらい、計測器を使って水源調査を行なった結果、サイディの土地の中のあるポイントで、深さ137ft、およそ41mの地点に水脈がある事が分かった。
ミリティーニの人々の暮しは追いつめられている。マテラの一族の暮らす土地には重税が課せられ、10年間で500万シリングもの未払い分を、今月中に支払うよう迫られている。
突然ブルドーザーがやって来て軒並み家々をつぶしていってしまうなんて事も、ケニアでは起こりえる。
そうなる前に早急に対策を考えておかなければならないのだ。
掘削業者と話し合った結果、1フィートにつき2000シリングで交渉が成立した。
137ftで274000シリングという計算になる。
幸いな事に、プングァの儀式のために集めた募金とCDの収益の残高があり、井戸掘りのデポジットを支払うことができた。
そして井戸掘りのための不足分と、今後移住の為に必要になってくる資金を生み出すために、CD「Sengenya」の在庫600枚の売り上げのすべてを、ダガムラ移住計画の資金源に充てることを決めた。
CD「Sengenya」は、ケニアの海岸地方に暮らす、ドゥルマ、ディゴ、ラバイの3つ民族の、総勢150人もの伝統音楽家たちと共に制作したアルバムである。ご先祖さまや精霊たちとの繋がりを大切に生きる人々の暮らしに欠く事の出来ないンゴマ(音楽)の世界。精霊を呼ぶカヤンバや、収穫祭の祝いの太鼓。大地に根付いた生きた伝統の音楽を、そこに生きる人々のスピリットと共に、全9曲を収録している。
このCDは参加ミュージシャンに対して長年収益の還元を行なって来たが、多くの長老たちやミュージシャンたちが他界し、還元が困難になっていた。
今後ダガムラ移住計画の為に、この作品を役立てていきたい。
「Sengenya」Traditional music of Druma,Digo,and Rabai.
センゲーニャ 東アフリカの伝統音楽 Vol.1 ドゥルマ、ディゴ、ラバイ 2500円
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