1991年6月21日生まれのカテンベ君は、ミリティーニ村で暮らしていた14歳のときに腎不全に陥り、危篤状態になりました。当時ミリティーニ村に住んでいた大西匡哉さんの呼びかけに応え、多くの皆様にご支援をいただき、母親から腎臓の提供を受け2006年10月26日にナイロビ病院で腎臓移植手術を行いました。そうして一命を取り留めたカテンベ君は、それからだんだんとリハビリを行い、通常生活が送れるようになり、学校に復帰し、順調な生活を続けてまいりました。 「カテンベ腎臓移植基金」として始まった支援は、移植手術が成功した後には、自立できるようになるまでの支援土台として「マイシャ・ヤ・ラハ基金(=幸せな人生という意味)」に形を変え、態勢を整え、彼の生活復帰と学費、医療費の継続支援を行ってきました。 移植された腎臓を元気に働かせ続けるためには、カテンベは一生、高価な薬を飲み続けなければならず、その薬は彼の免疫力を低下させてしまうため、長い間行くことが出来なかった学校に戻りたくても衛生状態の悪い環境に身を置くことは出来なくなりました。彼の体のコンディションが耐えうる学校に編入し、寮で生活しながら学び、3年前、無事高校を卒業することが出来ました。
高校を卒業するときに、これからは一人前の大人として、自立していくことを考えなければならないという話をしました。その時彼はとてもショックだったようですが、人間は誰もが自分自身の人生に責任があり、どうしようもない状況にある幼い子どもたちの命は出来るだけのことをして助けたいが、大人になれば、それぞれが自分の自立の道を歩んでいくべきだと思う、という話をしました。ショックなりに、彼はそれをよく受け止め、理解し、彼なりの努力をする決意をしました。 それでも自立というのは簡単ではありません。しかも、かつてカテンベの命を助けるために奔走した貧しい父親はすでに他界しており、腎臓を提供して体調が常に悪い母親と、小児糖尿病を患い腎機能が低下している妹を抱え、さらに、ミリティーニ村が工業地帯になって生活が困窮していく中、大学進学も断念し、家族の生活を支え自らの医療費を支えるために、日雇いなどの仕事を重ねながら努力をしてきました。 私は、高校を卒業してからいきなり支援を断ち切るのはあまりにも酷だろうと思い、支援を打ち切る1年前に予告をし、1年間は支援を続け、その後も、どうしようもない状況のときには手助けが出来るよう、基金はそのまま継続していました。 この最後の一年間は、大変なときに連絡は来ますが、出来るだけ自分の力で何とかするように、手助けしたい気持ちをぐっとこらえてあえて手助けを控えるようにしていました。 このような状態で何とかこれまで生活が続いてきた彼ですが、もうすぐ27歳の誕生日を迎えます。2006年のはじめから彼の支援をはじめて12年になりました。 私は、支援はいつまでも続けばいいものではなく、自立し、支援が必要無くなるということが最も望ましい形だと思います。
もうすぐ27歳になるカテンベは、これからの人生を、自分自身の力で生き、自分の健康を守り、問題に対処していくだけの知識や能力、思考力を身に着けたと私は信じています。 本人はまだ支援が必要と思っているようですが、ここで、カテンベ支援に一区切りつけ、彼自身を本当の意味での自立への道に送り出していきたいと思います。 皆様、長い間カテンベの成長を見守ってくださり、本当にありがとうございました。 「マイシャ・ヤ・ラハ基金」に最後に残っていたカテンベの支援金に関しては、最終的に、「マゴソスクールを支える会」のほうへ移動させていただき、かつてのカテンベのように支援が必要な数多くの子どもたちへの支援資金として活用させていただきたく思います。 そして、これを機に、「マイシャ・ヤ・ラハ基金」はその活動を閉じさせていただき、今後は私たちのケニアの子どもたち支援の窓口を、「マゴソスクールを支える会」に統一いたします。 カテンベ君の腎臓移植基金に関しては、2006年に私と大西匡哉さんとで記事を書き続けたブログがあります。興味ある方はごらんください。 https://keepmusic.exblog.jp/
また、「マイシャ・ヤ・ラハ基金」は終了しますが、今後も「マゴソスクールを支える会」を通じてキベラスラムをはじめ、ケニア各地の子どもたちへの支援を続けていきます。 子どもたちと出会い、共に歩み成長し、関わる私たちのほうでも命の大切さや人生について、深く学んでいく機会を大切にしていきたいと思っています。 これからも皆さんどうぞよろしくお願いいたします。いつも応援いただき本当にありがとうございます。
2018年4月24日 早川千晶
マゴソスクールを支える会ホームページ http://magoso.jp/
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